2018-08-25

種なしブドウを食べると種なしになる?

ブドウ(山梨産ピオーネ)を食べたら目の調子がいつになく良いような感じがしたので、しばらくコンスタントに食べてみようと思って八百屋に行った。

実家にいた頃は、ブドウを出荷するほど作っていたので、秋になるとほぼ毎日巨峰を食べていたのだけれど、今は自分たちで買うしかないので、大量には食べられない。 でも目にいいとなると話は別。多少出費がかさんでも、健康には代えられない。

巨峰を売っていたので買おうかと思ったら「種なし」と書いてある。 「今は巨峰も種なしなんですか?」と八百屋の叔父さんに聞いたら「そうだよ」とのお答え。 昔はデラウエアしか、種なしはなかったんだけどな〜。

それで思い出したのが先日NHKでやっていた日本人の「精子力」が低下中という話。

「種なしブドウ食べると種なしになる」なんて話はないんだろうな〜。 でも、30年後に「種なしブドウを作るジベレリンは人間には無害と思われてきたが、じつは影響を与えることが判明」なんてことにはならないんだろうか。

あまり、種なしブドウは食べたくないな〜。 少なくともイメージ的に良くないんじゃないだろうか(イメージの力を過小評価してはいけない)。

だいたい、「種を出すのが面倒」なんていう、ずぼらなヤツはろくな仕事もできんじゃろう(これは、暴言かな...)。

結局、昔から種なしがあるデラウェアを買って食べました。種ありブドウが食べたい。


ちょっと検索してみたら、種ありの巨峰のほうが美味しいという話もあるみたい。 まだ種ありブドウが食べられそうだ。よかった。

ブドウ(巨峰)の種は簡単に、しかもきれいに出せる

2018年10月8日追加

カミさんも知らなかったし、どうも多くの人がご存じでないようなので、ブドウの種の出し方講座です。 私は実家にいた頃、秋になると毎日2房、3房と食べていたので、独自開発したワザです(今、毎日3房も食べたら糖尿病になりそうですが、当時の運動量は半端なかったので全然平気。18歳の秋、「来年からはこんなに食えないから今のうちに」と思って、1日5房ぐらい食べたことがありました)。

  1. 一粒手に取ったら、穴を口のほうに向けて、中身をギュギュッと押し出します。同時に、唇を丸めて少し吸い込んだほうがスムーズにいくでしょう。これで、中身全体が口の中に入ります。まだ、皮はに手に持ったままにしてください
  2. 粒の中央を歯で噛み、ブドウの種をゼリー状の部分から分離します。歯の唇側に種を置いて、中に強く吸い込んで中身を喉の方向に移動させたり、舌で種を歯の外側に移動したりしてください。最終的には、種を唇と歯の間に残します
  3. 手に残っている皮を唇に軽く付けて種を穴の中に入れます。中に入らなくても構いません。種を皮で包み込むようにすればOKです。
  4. お皿とかゴミ箱とかに一体化した皮と種を捨てると同時に、ブドウの中身を良く味わいながら、ゴックンします。「ああ、美味しい。日本人に生まれて良かった。ブドウをいっぱい作っているうちに生まれて良かった」
  5. 上記をすべての粒に関して繰り返します

一緒に食べている人にもこの秘法を伝授してください。外国人の方がいたら、「お国に帰っても広めてね」とお伝えください (Corpyright Hiroyuki MUSHA (^_^))

2018-08-16

今日の朝焼けは怖いような色だった

今朝の朝焼けはすごかった。ちょっと見ると恐ろしくなるような色だった。

まあ、何が起ころうと、地球上のほとんどの生物は淡々と生きていくしか仕方がないのだけれどね。

2018-08-02

レビューの裏側

本を書いたり翻訳して出版したり、自分のプログラミング講座やストレッチ講座をやったりしていると、レビューとはどうしても付き合わなければなりません。

きちんとしたレビューを書いてくださる方も多いのですが、「ちょっと困る」というレビューもけっこうあります。

私のこれまでの経験から感じている、レビューアの「裏の事情」を書いてみようと思います。

人の意見に耳を傾けるのはもちろん大事ですが、最後はご自分で、公開されている様々な情報によって判断していただけたらと思います。

★ひとつのレビューがいくつかあったからといって、その本や講座が、「本当に★ひとつの価値しかない」とは限らないことを知っていただけたらと思うのです。 ★の数だけを見ずに、その意味合いも吟味していただきたいと思うのです。

表面的な知識しかもっていない人のほうが声が大きい

本当に豊富な知識をもっている人は慎重になります。 自分が「よく知らないことがある」ことをよく知っているからです。

それに対して、数年(場合によっては数ヵ月)、ある程度一所懸命何かに打ち込んだというような人が、「もうこの分野で知らないことはない」と思い込んでしまうことが時々あります。

そこで、自分のもつ(狭い)知識で賛成できないことに出会うと、それをネタに攻撃を仕掛けます。

「自分の知識が狭いのかもしれない」「ほかの視点で考えればこの人の書いていることにも一理あるのかもしれない」と考えたりはしない。

昔、サッカー選手のドゥンガ(ジュビロ磐田)が若手選手に「勘違いするなよ」とよく言っていたそうです。まだまだ、おまえはひよっこだよ、ちょっとちやほやされたからって勘違いしちゃいけないよ。難しいのはこれからだよ。本当の一流になる修行はこれから始まるんだぞ。

「痛いところを突かれる」ことももちろんありますから、批判するのはダメというわけではありません。 本当に批判に値することか吟味していただきたいのです。

「妨害電波」の発信

一番困る、というか頭に来るのがこれであります。

競合書の執筆(翻訳)者や競合講座の運営者が、悪口を書き綴る。 自分の本や講座のレビューを相対的によく見せるために★ひとつを付ける方がいらっしゃるように感じています。

これと反対に、競合講座を運営していらっしゃる方が、「偵察」にいらして、★★★★★を付けてくださったことがありました(Oさん、ありがとうございます。涙が出るほどうれしかったです。お互い頑張りましょう!)

しかし、さすがに★ひとつは売れ行きに響きます。ほかにあまた選択肢がある中で、★1個の本、★1個の講座にあえて手を出す勇気のある人はあまりいません。

順調に売れていた本が、★ひとつのレビューが入った途端に、ぱたっと売れなくなることもあります。既に30も40もレビューが書かれているところに、ひとつそういったレビューが入ってもあまり影響はありません。しかし、発売直後にいきなり★ひとつのレビュー、これは効きます。効果抜群です。

サイトによっては、時系列で表示されるので、一番最後に★ひとつのレビューが入ると、しばらく売れなくなるといった事態も生じます。Amazonの場合、標準では「参考になった」が多いレビューが一番上に表示されるので、あえて時系列表示にしない限りそういったレビューは先頭には表示されません。これは、ある意味公平かもしれません。

翻訳者(執筆者、講師)側からすると、よいレビューから表示してくれるとうれしいのですがね〜。

「自分が『人生の総決算』と思って書いた本が全然売れない」。それに対して、「同じ分野の本なのに、軽いノリで書かれた自分はたいして内容がないと思う本がベストセラーになっている」。

これは実に悲しき事態です。 1冊の本を書くというのは、かなりの労力が必要な仕事です。適当に書けばまあ、それほどのことはないかもしれませんが、普通の人は適当には300ページもの本を書けません。

場合よっては、10年以上かけてようやく完成にこぎつけたというケースもあるでしょう。

しかし、現実は受け止めるしかありません。 それに、ある日突然話題になって、ベストセラーになるかもしれないのですから。

長い目で見ることが肝腎です(はい、私が自分で書いたプログラミングの本もほとんど売れませんでした。今では「市場のニーズにマッチしていなかった」ことがはっきりと理解できます。そのうち「リベンジ」をしようと思っております)。

よいレビューを仲間にお願いする人々がいる

翻訳のネタ本を探すときは英語のレビューを参考にします。 最近、けっこう出会うのが、著者(あるいはその周辺)が何十人もの知り合いにレビューを書いてもらっているとしか思えない本です。

ある本のレビューがとてもよかったし、売れ行きも良かったので、翻訳候補にしたけれど、「読んでみたらメタメタだった」というパターンです。

レビューに頼らず、自分で読んでみるしか本当には確かめられません。

日本語の本でも、基本は同じですね。本当のことは自分手に取って内容を確認しないとわかりません。

50も100もレビューがあって、総じて評価が高ければ、大丈夫な可能性は高いでしょうが(技術書ではそんなにレビューが入ることは(まれ)ですが)、5個や10個のレビューでは、レビューの良し悪しだけで判定するのは危険です。

時間をかけられるのなら、複数のレビューサイトをあたったり、ブログのレビュー記事を探したりしていただいて、情報を集めていただけたら少し確実さが増すでしょう。

単に「有名なAさんが推薦していたから」ではなく、「有名なAさんが推薦していたから、本屋で見てみたら(「なか見検索」で見てみたら、ネットで公開されているプログラムを実行してみたら)よさそうなので」といったように少し手をかけていただけると確実性が増すのかなと思います。

(たで)食う虫も好き好き」。Aさんが「いい」と思ってもあなたが「いい」と思うとは限りません。 同様にAさんが★ひとつを付けたとしても、それがその本がダメなことの証明にはなりません。