2011年7月4日月曜日

そうめんのタレと達人の感覚

今日は暑かった。そこで、そうめんを食べた。胡桃(くるみ)があったので、胡桃ダレのそうめんにしようということになった。

カミさんが私の実家に行ったとき母がよく作ってくれたものだ。母は認知症になってしまったので、もはや作ってもらうこともなくなってしまった「秘伝のレシピ」だ。

じつはうちではこのタレがまだうまくできたことがない。どうもうまく行かないので、「手伝ってくれ」と言われて手伝った。胡桃の実をすり鉢にいれ、少しすりつぶす。

「たしか、ダシを入れながらまぜてたぜ」。すりこぎを回しているうちに、幼い頃お袋の手伝いをしたときに感覚がよみがえってきた。当時は、母がすりこぎを回して私はすり鉢を押さえていたのだが、今日は私が回している。

家内お手製の八方だしを少し水で薄め、まずはカップ1杯ほどドバッとすり鉢に入れる。

さらにすりこぎを回してすりつぶす。

「まだ、足りないなあ。もうちょっといれて」

家内は、もう一度八方だしをカップに入れ、水を加えて、いきなりカップ一杯全部をすり鉢に「ジャー」とあけた。

その瞬間、私の頭の中を何かが「サ〜っ」とおり過ぎるような感覚がした。

「これはまずい」

なぜ、まずいか。明らかに水分が多すぎるのだ。限界を超えてしまったと私のカラダが感じたのだ。

すりこぎを回しているうちに、昔の感覚がよみがえってきて、お袋がダシを入れては回し、入れては回し、少しずつ少しずつダシを加えていたことを思い出してきた(ような気がした)。

「もっと、粘りけが出てこないと行けない。それには、少しずつ少しずつダシを加えていくんだ」

胡桃ダレに関して、私はもちろん達人ではないのだけれど、昔達人のそばで「修行」をしていたことがあったわけで、少しは達人の感覚が「移って」いたのかもしれない。達人の感覚とはこのように「何となく感じる」種類のものであることが多いのだと思う。


明らかに薄くなりすぎてはしまったものの(もう胡桃はなかったので胡桃を足すことはできなかった)、そこそこおいしくはあった胡桃ダレのそうめんであった。

やってみないと分からないことは多いのよ

私は機械翻訳ソフトを作ろうとしていて、人間翻訳を始めたのだけれど、その理由のひとつが「実際にやってみないとわからんことは多い」ということを感じている(いた)からのような気がする。翻訳ソフトを作っていた(いる)人の多くは翻訳者ではないわけで、翻訳とは何か、感覚的には知らない。そこに違いが出ると思っているのだけれど。