今日は暑かった。そこで、そうめんを食べた。胡桃(くるみ)があったので、胡桃ダレのそうめんにしようということになった。
カミさんが私の実家に行ったとき母がよく作ってくれたものだ。母は認知症になってしまったので、もはや作ってもらうこともなくなってしまった「秘伝のレシピ」だ。
じつはうちではこのタレがまだうまくできたことがない。どうもうまく行かないので、「手伝ってくれ」と言われて手伝った。胡桃の実をすり鉢にいれ、少しすりつぶす。
「たしか、ダシを入れながらまぜてたぜ」。すりこぎを回しているうちに、幼い頃お袋の手伝いをしたときに感覚がよみがえってきた。当時は、母がすりこぎを回して私はすり鉢を押さえていたのだが、今日は私が回している。
家内お手製の八方だしを少し水で薄め、まずはカップ1杯ほどドバッとすり鉢に入れる。
さらにすりこぎを回してすりつぶす。
「まだ、足りないなあ。もうちょっといれて」
家内は、もう一度八方だしをカップに入れ、水を加えて、いきなりカップ一杯全部をすり鉢に「ジャー」とあけた。
その瞬間、私の頭の中を何かが「サ〜っ」とおり過ぎるような感覚がした。
「これはまずい」
なぜ、まずいか。明らかに水分が多すぎるのだ。限界を超えてしまったと私のカラダが感じたのだ。
すりこぎを回しているうちに、昔の感覚がよみがえってきて、お袋がダシを入れては回し、入れては回し、少しずつ少しずつダシを加えていたことを思い出してきた(ような気がした)。
「もっと、粘りけが出てこないと行けない。それには、少しずつ少しずつダシを加えていくんだ」
胡桃ダレに関して、私はもちろん達人ではないのだけれど、昔達人のそばで「修行」をしていたことがあったわけで、少しは達人の感覚が「移って」いたのかもしれない。達人の感覚とはこのように「何となく感じる」種類のものであることが多いのだと思う。
明らかに薄くなりすぎてはしまったものの(もう胡桃はなかったので胡桃を足すことはできなかった)、そこそこおいしくはあった胡桃ダレのそうめんであった。
やってみないと分からないことは多いのよ
私は機械翻訳ソフトを作ろうとしていて、人間翻訳を始めたのだけれど、その理由のひとつが「実際にやってみないとわからんことは多い」ということを感じている(いた)からのような気がする。翻訳ソフトを作っていた(いる)人の多くは翻訳者ではないわけで、翻訳とは何か、感覚的には知らない。そこに違いが出ると思っているのだけれど。
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